心理カウンセリングとは

ずいぶんと昔のことですが、僕が友人の家で新年会をしたときに、こんな会話がありました。

「カウンセラーってアドバイスするんやろ?どんなアドバイスすんの?」

「いや~、それがさ。アドバイスしたらあかんねん。いや、アドバイスしたらあかんってわけじゃないけど、基本的にあまりアドバイスせえへんねん」

「じゃあ、どうすんの?」

「う~ん、基本的には、まず相談に来た人の話を聴くねん。9割くらいは話聴くだけやねん」

「え?そんだけなん?聴くだけなん。そんなんでいいの?」

そんな会話がありました。



カウンセリングを全く知らない一般の人からすれば、そう思うのももっともかもしれません。

とはいえ、どうすればカウンセリングを伝えられるのかもわからず、あいまいな返事を続けていました。

すると、その場にいた1人の女性がいいました。


「話を聴いてあげたら、それだけで気持ちが楽になるねん」

「うん。まあ、そうやな~」

たしかにそういう部分もあるけども、でもそれだけじゃないんだよな~と思いながら、僕がうやむやに返事をしていると、その女性はさらにつけ加えました。


「占いだってそうなんだから」。


やっぱり、全然伝わっていないな~と思いました。

ちなみに、「カウンセリングなんて、キャバクラやホストクラブに行って、仕事のグチを聞いてもらったらスッキリするのと一緒でしょ」といわれることもあります。

それも、やっぱり全然違います。

カウンセリングというのは、カウンセリングを全然知らない人からは、こうやって大いに勘違いされることが多いです。


カウンセリングは決して、ただ話を聴いてすっきりしてもらうだけのものではありません。

もちろん、話を聴いてもらってすっきりする。そういうカタルシスな側面もあります。でも、それはカウンセリングの一面でしかありません。


そして、一般の人が思っているほどはアドバイスはしないけれども、絶対にアドバイスしちゃいけないわけでもありません。

でも、「じゃあ、カウンセリングっていったい何なの?」と、あらたまって質問をされると、とても返事が難しいです。


だから、僕のように困ったカウンセラーがうやむやに返事をしてしまい、より一般の人に勘違いされることになります。

長い間、そうやってうやむやに答えてきたことを、僕自身、反省しています。



とはいえ、この質問、カウンセラーにとっては本当に答えに困るのです。

たとえば、外国の人から、日本人とは何か?とかいきなり質問されたら、なんだか答えようがないですよね。

オリンピックの柔道金メダリストだって、柔道を全く知らない人から、「柔道とはなんですか?」と質問されたら、なかなかうまい言葉が見つからないはずです。

そもそもカウンセリングについての本なんて何百冊もあるのに、それをたった一言で答えられるわけがありません。

そんなことをしょっちゅう質問されるのですから、僕のようなカウンセラーは、うやむやに返事をしてごまかしてしまうのです。

これは僕たちカウンセラーにとって、お酒の場でのよくあるめんどうな一場面です。


ちなみに、一番めんどうなのは、お酒の場でちょっとしたグチを話し始める人がいると、「おっ!!悩み相談がはじまったぞ!!お前、カウンセラーなんだろ。なんか答えてみろよ!」とはやし立てられることです。

その場でガチでカウンセリングをするわけにもいかず、そういうときは適当にやり過ごすしかありません。

そういう僕の態度も、一般の人へカウンセリングの誤解を与えているのかもしれません。


そして、その次にめんどうな質問が、先ほどの「カウンセリングって、アドバイスしないならなにするの?」というものです。


長年、本当にこの質問には悩まされてきました。


でも、この質問は僕たちカウンセラーにとって、いつかはきちんと答えられるようになっておかなければならない気がします。

それも本から引用した言葉ではなく、自分自身の生の言葉で語れるようになる必要があると思うのです。


これは本当に大変なことなんだけれども、ここを乗り越えなければいつまでたっても、「自分なりのカウンセリング」を確立できないと思うのです。


そこで、僕はここに一つの答えを出そうと思います。

 

 

 

心理カウンセリングとは対話による出会い


 

僕の考えるカウンセリングとは、「対話による真の出会い」です。


そして、対話による真の出会いは、人間を本来あるべきよりよい姿に戻すのです。


「対話? 出会い? いやいや、それってただ会って話してるだけでしょ。普通の会話と変わらないじゃない。ただ会話するだけで、何の意味があるの?」


一般の人には、そう思われるかもしれません。

でも、「対話」と「会話」は全く違います。


では、「対話」と「会話」は、いったいなにが違うのか?

それは、「深さ」です。



会話とは、日常生活に必要な情報伝達のやりとりです。

ただの情報伝達だけでなく、コミュニケーションを円滑にするための会話も、もちろんあります。


たとえば、新婚夫婦の「行ってきま~す」のチューは、日常的な挨拶に近いものです。

「行ってきま~す」のチューをするかしないか、またはどのような空気感でチューをするかで、今日も仲がいいかどうか、お互いに機嫌がいいかどうかを確認できます。


行ってきますのチューもとても大切で、良い夫婦関係を築いていくためには、こういうコミュニケーションを欠かさないことが、とても大事です。

 


いただきます。ごちそうさま。ごめんさない。ありがとう。

こういう言葉を使って会話をすることは、人間関係を円滑にするために欠かせません。

褒め言葉とダメ出しの割合が、9:1の夫婦は、結婚生活が長続きするのだとか。

こういう日常会話は、対話に比べると浅い言葉のやりとりですが、人間が生きていくために、本当に大事なものです。

 

 

 

対話には深いニュアンスがある


逆に、「対話」という言葉には、どこか小難しいニュアンスがあります。

夫婦で本音をぶつけて話し合い、何十分という沈黙があり、最後の最後に相手の目をしっかりと見つめ、なんとか今の自分の気持ちを言葉にしようとして、

「元通りになれるかといわれると、よくわからない。でも、やっぱり、まだ一緒に生きていきたいと思ってる」

といったとします。

そういわれたら、相手も少し心の防衛が解け、

「自分も、まだ気持ちの整理はつかないけれど、一緒に生きていきたいと思っている」

といってくるかもしれません。

そうなると、互いの気持ちをより深く理解し合い、まだ少しわだかまりはあるけれども、互いのなかにある「一緒に生きていきたい」という感覚と出会い、共有することができます。


これは、「行ってきま~す」のチューとは深みと重みが全く違います。そして、単に仲がいい夫婦よりも、深い絆がある感じがします。

肌は全く触れあっていないのに、心がふれあっている感じがします。


こういう深みや重みのあるコミュニケーションが、「対話を通じた出会い」です。


「対話」とは、お互いが本当に思っていること、感じていることを、互いにもっと深く知ろう、理解しようと思い合い、あらゆるコミュニケーションを積み重ねる行為です。

気軽な会話とは違う真剣さが、小難しいニュアンスを与えるのかもしれません。


たとえば、地球にはじめて宇宙人がやってきたときに「どうやって宇宙人と会話しよう」だと、なにか変です。

それよりは、「どうやって宇宙人と対話しよう」のほうが、しっくりくる感じがします。


これは地球人と宇宙人という全く互いを知らない他者と他者が、なんとかコミュニケーションを図り、なんとかお互いに気持ちや感覚を伝え合いたい。

単なる「ハロー」だけではなく、相手がどういう価値観を持ち、どのような生き物なのか、互いに深く知り合いたいのです。

そこには会話とは違う深さがあります。

 

 

 

対話という必要性があるから自分自身に気づける




対話の深さは、本当に計り知れなくて、

「自分自身ですらまだ気づいていない感覚。

いわれてみればなんとなく自分のなかにある感覚だけど、日常生活のなかでは、わざわざそんな感覚に目を向けることがなかった感覚。

だからこそ、自分自身の頭の中ですら、一度も言葉として表現されたことがない感覚」

そういう感覚すら、いや、そういう感覚こそを、知り合う行為です。


対話をしながら、なんとか相手に自分の感じているものを伝えようとすると、

「自分のなかにモヤモヤとして存在はしていたけれども、いまだかつて一度も言葉にしたことがなかった感覚」

までをも、なんとか表現して相手に伝えようと試みなければなりません。


たとえば宇宙人に、

「地球人は、どんな生き物ですか?」

と質問されたら、

「自分たち地球人は、どんな生き物だろう?」

とまずは自問自答し、自分のなかにある地球人像を、なんとか言葉にして表現しなければなりません。

「地球人は平和な生き物です」

そう答えたいと思った瞬間、でも戦争の歴史も頭の中をよぎり、平和な生き物というのは、正直で誠実に自分の感覚を表現できていないと気づくかもしれません。

「地球人は平和な生き物ですと答えるのは、何か違和感がある。ウソをつくつもりはないけれど、どこか正確でない感じがする」

そんな感覚が沸いてくるかもしれません。


そこで、より自分のなかの感覚を丁寧に味わい、探り、ゆっくり時間をかけて言葉にしていくと、

「これまでたくさん戦争もしてきたけれど、本当は平和を望む生き物です。いや、まだまだそういう生き物にはなれていないけれど、これからはそういう生き物になっていきたいと思っています」

そう答えるかもしれません。


そうやって自分の感覚をより味わい、探り、正直で誠実な言葉として、丁寧に表現していくなかで、僕たちはいままでの自分たちの生き方を省みることができます。

それによって、よりよい生き方とは何かを、見つめ直すことができます。

これは、僕たちがじっくり時間をかけて心の中を見つめ直せば、いつでも考えられる答えかもしれません。


でも、人間というのは、相手に伝える必要がなければ、わざわざ自分のなかの感覚を言葉にして表現しようとしません。


宇宙人という対話の相手ができたからこそ、やっと僕たちは自分のなかにある「地球人とはどんな生き物か?」という感覚を表現しようと、重い腰を上げることができるのです。

これは、レポートの提出期限がなければわざわざ自分の考えをまとめないのと同じです。

人間は必要に迫られなければ、わざわざ自分のなかにある感覚を、自分の頭の中でさえ、言葉にしようとしません。


だから、僕たちの頭の中には、とてもたくさんの感覚があるけれど、そのほとんどは言葉にされることはなく、無意識のなかを漂い、流れているだけです。

「元通りになれるかといわれると、よくわからない。でも、やっぱり、まだ一緒に生きていきたいと思ってる」


この感覚は、夫婦喧嘩をしているときも心の奥底にはあったけど、意地やプライド、嫉妬や怒りが邪魔をして、見えなくなっていたのでしょう。


じっくりと自分のなかにある感覚を味わい、正確に、そして互いに意味があるように丁寧に言葉にすることで、やっと自分自身の気持ちにきづけたのです。

互いをよりよく知り合うためには、そういう言葉になっていない感覚をとらえ、なんとかそれを正確に表現する必要があります。

そうなると自然と、自分ですら気づいていなかった自分自身に、気づかされることになります。


僕たちは、相手と対話していると同時に、自分自身とも対話しているのです。

 

 

感覚を言葉にすることで自分自身に気づける



人間は自分のなかにたくさんの感覚を持っていますが、それを言葉にしなければ、概念としてうまく扱うことができません。


たとえば、赤いニットが欲しいとします。

でも、赤には本当にたくさんの赤があり、無限のグラデーションがあります。


「赤いセーターが欲しいねん」

「こういうやつ?」

「いや、こんなに真っ赤じゃないの」

「朱色みたいなん」

「う~ん、それとも違って、もうちょっと紫がかってるかな~」


こんな会話を何回もやり取りしながら、ふと洋服屋さんでちょうどいい色のセーターを見つけこういいます。


「これこれ!こういう色のセーターが欲しかってん!」


こういう経験は、誰にでもあると思います。


では、なぜ、このセーターの色を伝えることができなかったのでしょうか?

それはこのセーターの色の名前を知らない。

もしくは、まだその色には名前がつけられていない色だからです。


紫がかった赤には、臙脂色(えんじいろ)という色があります。(いまこれを書くために調べて、僕もはじめてえんじ色がどんな色なのか正確に知りました)

でも、「えんじ色よりも、もうちょい赤より」とか、「えんじ色よりもうちょいオレンジより」などを考えると、まだ名前がついていない色なんて、自然界には無限にあります。


そして、僕たちの心は、実はこういう名前がついていない感覚であふれかえっています。

たとえば、僕たちは日常生活で、「頭がズキズキする」とか「頭がガンガンする」とかいいますが、「ズキズキともガンガンともちょっと違うんだよな~」と感じたことがあるはずです。

むしろ、そういう身体的感覚は、言葉として上手く表現できることの方が、きわめて珍しいです。

「頭がガンガンする」という言葉がよく使われているので、とりあえず病院に行ったときに、「頭がガンガンするんです」といいます。


でも、本当は

「なんかね、頭の中に血管あるじゃないですか。

その血管をホースみたいにグッてつまんだら、ピューッて血が勢いよく飛び出していくじゃないですか。

あんな感じで頭の血管がグッてされて頭の血がピューー!ってなって頭の中が血の圧力でパンパンになってる感じで頭が痛いんですよ。

いや、でも別に本当に頭の中が出血してるとかじゃないんです」

と感じてるのかもしれません。


でも、そんなのわざわざ言葉にするのは面倒だし、病院で変な人だと思われたら嫌なので、とりあえず「頭がガンガンするんです」と僕たちはいってしまいます。


ちなみに僕は肩こりでよく偏頭痛になります。

そのときこの「脳の血管をホースみたいにグッとされて、血がピューッてなって血の圧力でパンパンになってんじゃないかって痛み」を感じます。

この原因が肩こりだとわかったとき、「ああ、本当に血管が圧迫されていたんだ」と思って、なんだか妙に納得したことがあります。

ずいぶん昔からこの偏頭痛に悩まされていたのですが、やっぱり病院で変な人と思われたら困るので、この話はしたことがありません。



こんなふうに、本当は僕たちの心の中は、言葉にならない感覚で埋め尽くされています。

自分自身の感覚としては、「たぶん、こういうことなんじゃないかと思う」と思うことがあっても、その感覚はなかなか言葉にできません。

むしろ、言葉として意識に上がってくるものなんて、ほんの少しです。


そして、この言葉になっていない感覚を言葉にしていく過程で、僕たちの心は整理され、自分にとってなにが大切なことかを、明確にしていくことができます。


野球の天才バッターに、「どうやってヒットを打つんですか?」と質問したとします。

すると、その天才バッターは、「ボールがビュッてきたら、ズバッてバットを振るんですよ」と答えたとします。



おそらく自分のなかにバッティングの秘訣のようなものがあり、それを伝えたい気持ちはあるのでしょう。

でも、その感覚を言葉にするのが、とても難しいのです。


でも、それをなんとか言葉として表現できるようになったとき、頭の中でバッティングの秘訣が整理され、よりバッティングがうまくなるのです。

感覚から理論になることにより、さらにその感覚を自己理解し、いつでもその感覚を発動できるようになるからです。

 

 

 

子供の名前に込めた感覚を自分でもわかっていなかった




たとえば、僕自身の話だと、こんなことがありました。

僕は自分の子供に「天」という名前を付けました。

子供が生まれる前から、名前は「天」がいいと、僕は奥さんに強くプッシュしていました。

そのために、あらゆる言葉を尽くして、プレゼンテーションしました。


「あのさ、僕、中越裕史やろ。

 

この裕史って、縦に書いたときに史の字がバランス悪いねん。

史が人間やとして、下半分を足やと考えて欲しいねん。史がフィギアスケートの選手やと、多分、回転ジャンプしたあと着地でこけると思うねん。

たぶん、足首捻挫するこけかたやで。

長年、中越裕史って書き続けてきて、ずっとバランス悪いよなって思っててん。


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※縦に書くとこんな感じです






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しかも、一番上の「中」が左右対称やのに、一番下の「史」は微妙に左右対称じゃないねん。

だからさ、左右対称の漢字がいいねん。


でも、下の名前、木はおかしいやろ。中越木って。それは樹木の名前やん。

だからって、森も変やん。中越森。それただの地名やん。新潟県あたりの地名やん。

(そういう名前の人がいたらすみません)。


それでいろいろずーっと考えててんけど、「天」がいいと思うねん。

漢字のバランスもいいし、響きもいい。縦に書いても絶対に足首捻挫せえへんやろ。


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※縦に書くとこんな感じです





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なにより、天からの授かり物、天の導き、天使の天。

小学生くらいになったとき、自分の名前の由来を聞いてくると思うねん。

その時に何の意味もない名前より、天からの授かり物、天の導き、天使の天。そういう優しい子になって欲しいっていえたほうがいいやん」


僕は長年、子供の名前になんてまったく興味のなさそうだったのに、急に熱弁をふるうので奥さんはびっくりしていました。

最後の方は、

「ほら、このゲーム見てよ。拳を極めし者が必殺技決めたら、画面に「天」の一文字がでんの。超かっこよくない!?」

そんな奥さんがまったく興味を持ってくれないプレゼンになっていました。

ただ、僕の熱意だけは伝わったのと、「天」という言葉の響き、バランスの良さは伝わったようで、無事に「天」の一文字に承認が下りました。


そして実際に子供が生まれると、いろんな人から「なんで「天」っていう名前にしたの?」と質問をされます。

そのたびに、僕は天からの授かり物だからとか、天使の天とか、文字のバランスがいいからと答えていました。


でも、本当は僕自身、なぜ天という名前を付けたかったのか、ずっと自分自身でもわかっていなかったのです。

僕が天という一文字に込めた感覚は、なんとも言葉として表現しにくい感覚だったからです。

天という名前にしたいという感覚は、僕の中にちゃんと存在していたのですが、それがどういう意味を持っているのか、自分でもよくわかっていなかったのです。


それから約1年、自分のなかでなかなか言葉にならず、奥さんにプレゼンした言葉も、なんとも自分のなかで消化不良でした。

別にゴリ押しするつもりはなかったのですが、天という名前をプッシュしたいから、なんとか理由付けをして、思いついたことを言っていたのかもしれません。

(ただ、左右対称の字にしたいと思っていたのは本当です。裕史の史は足首捻挫しそうなのです)


で、先日、うちの天さんは1歳の誕生日を迎えました。

この1年、本当にいろんな人から、「なんで天っていう名前なの?」とたくさん質問されました。

そして、誕生日から数日が経った日、天さんが早めに寝てくれたので、珍しく夫婦でゆっくりと話をする時間がありました。


そこでまた、「なぜ天という名前にしたのか?」という話になりました。

というのも、「本当に小学校の宿題で、自分の名前の由来を親に聞いてこいと言われたらどうするか?」という話になったのです。


僕は、すこしゆっくり自分のなかに意識を向けて、深く自分の感覚を言葉にしようと、丁寧にその感覚を味わい、その感覚をどうすれば表現できるのか、たどたどしく話をしていきました。


「あのさ。30年くらい前やねんけど、おばあちゃんの家に、格言みたいなん飾ってあってん。

そこに、「天 地 人」ってかいてあってん。

「天 地 人」の本当の意味は知らんねん。

でも、この天って言葉ってさ。この世のあらゆる善きものを、一文字で表現してる気がするねん。

真理とか誠実さとか道(タオ)とか大自然に対する畏敬の念とか。

なんか言葉にはできひんけど、そういう深く善きもの全てひとまとめにして「天」やねん。


なんかさ、僕が中学生くらいのときに、少年が猟奇殺人する事件があってん。

そのとき「なぜ人を殺してはいけないのか?」っていう問いに、テレビの大人達がうまく答えられへんかってん。

僕はその時のテレビの大人達と同じくらいの年齢になったけど、やっぱり僕も何で人を殺したらいけないのかって、理屈で説明するのって無理やねん。

実際に戦争はあるし、死刑もあるし。

それを説明しようとしても、死刑がない方が実は再犯が減る。だから死刑はよくないって説明するのも、なんか違うやん。

人を殺して良くなくて、豚や牛は殺していいっていうのも、やっぱり理屈で説明しきるのは無理やん。


でもさ、ある程度、大人になってきたら、なんでかわからんけど感覚的に人を殺すのは良くないことってわかるやん。

豚や牛も、できれば虫だって、できる限り命は奪わない方がいいっていう感覚が、自然とわかるようになってくるやん。

実際には羽虫は殺すし、食べ物残すことだってあるけど、なんかそれはよくないことっていうのは、なんとなくわかるやん。

これって、多少の文化の差はあっても、人間が持ってる自然な感覚やと思うねん。


いや、なんか大きな話になるけど、人間だけじゃなくて、この世の生きとし生けるもの全てが、どこか深いところでこういう感覚を持ってると思うねん。

人間の子供も、動物の子供も、小さいときはいたずらで虫とか生き物を殺したりするけど、大きくなったらそんなことせえへんくなるやん。

なんかそれは善くないことって、なんとなくわかってくるねんよな。


それで、その感覚って、とても深くて大事な感覚やと思うねん。


なんか本当にうまく言われへんけど、そういう僕たちが本来は感覚的に持ってる深く善き判断みたいなものに、耳を傾けられる子になって欲しいねん。

そしたら、それはきっと優しい子やし、学校の成績とは違う知性を知る子になるやろうし、命の大切さや生きる喜びを感覚的に理解してくれる子になると思うねん。


人間って、それさえわかってたら、ある程度、どんな状況になっても、いい人生になると思うねん。

そこからズレへんかったら、もうそれでいいねん。


なんか本当にうまく説明できひんけど、そういう深い雰囲気とかニュアンス全部ひっくるめて「天」やねん。

ただの空やとただの空やけど、天空になったら、この世の真理に近づいたニュアンスになるやん。

なんとなくわかった?」

「うん。なんとなくわかった。でも、小学校の宿題としては、難解すぎるな~」

「せやな~。そこは、天からの授かり物とか、天の恵みってことにしとけばいいんちゃうかな~」。


このとき、僕と奥さんは、はじめて天という名前について、対話をしました。

僕自身、自分でさえわかっていなかった天を言う言葉に込めた思いを、はじめて自分で言葉にしました。

このことについて、自分の頭の中ですら、ちゃんと考えたこともありませんでした。

この話をするまで、おばあちゃんの家に、「天 地 人」という格言が飾ってあったのも、すっかり忘れていました。


僕は「ボールがビュッてきたら、ズバッてバットを振るんですよ」と同じ感覚で、「名前は天がいいに決まってるでしょ」と感じていたのです。


奥さんは10分も20分も、ただわけのわからない、まとまりのない僕の話を、なんの反論もせずに、じっと黙って聞いてくれました。

奥さんは僕の「天」に対する感覚を理解しようと、耳を傾けてくれました。

だから僕は、最初はたどたどしかったけれども、自分の感覚を言葉にすることをあきらめず、ちゃんと味わいながら少しずつ丁寧に表現していけました。

僕は自分自身の感覚と対話をすると同時に、奥さんと対話していきました。


いま、これを書いていてふと気づいたのですが、おそらく僕は、そんな深い意味を子供の名前に込めたことが、なんだか気恥ずかしかったのです。

天さんは僕が40歳を過ぎてからできた子供です。

それまでの40年間、あまり子供に興味がないような顔をして生きてきた自分が、子供の名前にそんな深い意味を考えていたというのが、奥さんに対してはもちろんのこと、自分自身でも恥ずかしかったのです。


いや、僕の父はお酒を飲んでは暴れる人だったので、僕は父親というのがどういう存在なのかよくわからないまま、父親になろうとしていました。

父親っていうのが、どういう顔をして振る舞っていたらいいのかわからず、戸惑っていたのだと思います。


それはあまり自分でも目を向けたくない部分で、そこを深掘りしたくなかったのだと思います。


なんだか本当にうまく言葉にできないのですが、「子供の名前を考える父親」っていうのが、どんな顔をしていたらいいのかわからずに戸惑っていたのです。

そして、そんな自分自身に、すごく恥じらいがあったのです。


「なんでそんなことを恥ずかしがるの? 子供思いのいい父親じゃないか」と思うかもしれません。

でも、人間の悩みというのは、他の人からすれば、多くの場合、「なんでそんなことを気にしてるの?」ということがほとんどです。


40歳を過ぎた僕は、自分の前髪を気にすることはほとんどありません。

でも、思春期のころは、「前髪を切るの失敗したから、学校行きたくない…」と思ったのです。

大人からすれば、「なんでそんなことを気にするの?」と思うことです。

でも、「前髪を切るの失敗したから、学校行きたくない…」という思春期の感覚ってどんな感覚なんだろうと、なるべく正確に理解しようとする。

それこそが、相手に寄り添うことであり、対話の第一歩になります。


僕の奥さんはからかうことなく、なんの批判もすることなく、真摯に、丁寧に、天という一文字に対する僕の感覚を理解しようと耳を傾けてくれました。

だから僕は、自分自身でさえ気恥ずかしくて深掘りするつもりのなかった感覚を、たどたどしくも味わいながら、なんとか表現しようと試みたのです。


この瞬間、僕と奥さんは、「天」という一文字について、本当に対話することができました。


子供が生まれるまえ、僕が奥さんにプレゼンをしていたのは、ただの会話に過ぎません。

そういう会話も、それはそれで大事なことだけれども、そこには深さが足りていません。

なにより、僕自身も、天という文字に込めた思いに、気づいていませんでした。

ただ、うまく言葉にできないけど、「名前は天がいい」。そんな感覚があっただけです。


奥さんと対話するうちに、なんとか自分の感覚を伝えようと、深く自分の感覚にアクセスし、味わい、なんとか言葉として表現しようともがいているうちに、うまく伝わらないけれども、なんとなく伝わったのです。


そして、こうして対話しているうちに、僕は自分の子供に対する思いや価値観がより明確になっていきました。


それにつれて、自分がどのように子供に接していきたいのか、どんな子になって欲しいのか、ほんの少しわかった気がします。

そして、僕が父親としてどんな背中を見せればいいのかも、ほんの少しわかった気がします

それは、親として、そして1人の人間として、ほんのちょびっと成長したということでしょう。

 

 


頭の中や心の中の言葉にならない感覚を、なんとか言葉にしていくという作業には、そういう働きがあるのです。


頭や心の中にある言葉にならない感覚を、言葉として整理し、表現することによって、人間はほんの少し、より自分らしい人間として、成長することができるのです。

 

奥さんと対話をすることにより、僕は自分自身の深い部分とも対話をしたのです。


こういう対話により、僕たちは人間的に成長し、問題を乗り越えていきます。


人間は、言葉にできない感覚を、うまく扱うことができない



では、なぜ感覚的にわかっていることを、わざわざ言葉にする必要があるのでしょうか。

それは、人間は言葉にしなければ、その感覚や概念をうまく心の中で扱えないからです。


たとえば、インド人は0という概念を発明しました。

でも、ある日突然、0があたまに浮かんだのでしょうか?

おそらくはそうではないはずです。


なんとなくそれまでも人間は、うまく言葉にできたことはなかったけれども、0という感覚をうっすらとぼんやりと持っていたはずです。

ですが、その言葉にならない感覚に名前を付けた人がいなかったので、0という概念をうまく扱うことができなかったのです。

なので、正確にはインド人が0を発明したというより、まだ誰も言葉にしたことがなかった0という感覚に、はじめて0という名前を付けた。

そう表現した方が、ずっと正確だと思います。


そうやって感覚に名前を付けなければ、僕たちはその感覚を使って思考にすることも、概念として扱うこともできません。

それはどういうことかというと、自分の意思でその感覚を無意識から引っ張り出すことができないということです。


感覚に名前を付けることによって、その感覚を思考の道具として、自由にいつでも頭や心の中で扱うことができるようになるのです。

名前を付けていない感覚は、一瞬で忘れてしまいます。なので、名前がついていない感覚は、長く意識にとどめておくことがとても難しいのです。


名前がついていない感覚は、無意識としては存在していても、意識として扱うのがすごく難しいのです。


そして、人間というのは、本当は言葉になっていない感覚をたくさん持っています。

人間の感覚のほとんどは名前がついておらず、ただ無意識を流れていくだけです。


でも、人間の意識の大半は言葉でできています。

言葉になっていない感覚は、うっすらと意識に上ってくることはあっても、その意味を理解されることなく、ただただ流れ去っていってしまいます。


日常の大半の感覚は、そうやって流れていっても問題ありません。

僕たち人間は、心に生じる感覚を全て正確に言葉にしようとしていたら、いくら時間があっても足りません。

なにより、名前がついていない感覚を言葉として表現するというのは、とても脳みそを使うことです。

そんなことをしていたら、あっという間に疲れ切ってしまいます。

(カウンセリングという行為が、相談者さんもカウンセラーもとても疲れるのは、ここにあります)


だから、僕たちの感覚のほとんどは、無意識的に流されていくようにできています。

でも、本当に大事な感覚は、たとえ言葉になっていなくても、流されずに心の中に感覚として残り続けます。


特に、僕たちの生命的叡智が、解決する必要があると判断したネガティブな感覚は、心に引っかかるしこりとして、残り続けます。

そうすると、最近、なんだか意味もなくイライラするなとか、なんだか心がモヤモヤするなと思うようになります。


それでも、僕たちが自分の言葉にならない感覚に耳を傾けないとき、「会社に行こうとすると頭が痛くなる」とか、「学校に行く時間になるとお腹が痛くなる」と、身体的反応として現れるようになります。

または、いつも職場の人間関係でもめて仕事を辞めたり、問題のある異性とばかり恋愛をするようになったり、仕事、恋愛、家族関係などで、同じような問題を何度も繰り返してしまったりします。


こういう状態を解決するためには、自分の言葉にならない感覚に目を向けなければなりません。

自分はなににイライラしてるんだろう。なにが嫌なんだろう。本当はどうしたいと思っているんだろう。

それをうまく言葉として表現することができたとき、僕たちの無意識と意識はより統合され、より自分らしい自分になれます。

人間が自然に持っている生命的叡智、未だ言葉にされたことはないけれど、自分の中に眠っている感覚を正確に言葉にしていくことで、その感覚に自信が持てるようになっていきます。

それにより、自分が進むべき方向性や、いま自分がどうすればいいのかが、自然とわかるようになります。

そして、よりタフに、より強靱に自分の人生を歩んでいくことができるようになります。

自分の感覚がよくわからない理由




ただ、その言葉にならない感覚は、多くの場合、自分でもあまり気づきたくないことだったりします。


自分の弱い面と向き合う必要があったり、世間一般的な価値観とは大きく違う感覚が自分の中にあることに、気づかされたりします。

ときには、古いかさぶたをはがさなければならないこともあります。


それはやっぱり焦点を当てるのが辛い感覚です。


だから、弱い自分や古傷、世間から批判されそうな感覚には、つい蓋をして意識に上りにくくなっているのです。


たとえば、「大企業に勤めているけれども、いまの自分には合っていないから辞めたい」と思っているとします。

でも、そんなことをいうと、「せっかく大企業に勤めているのに、もったいない。家族だっているんでしょ。いまの会社を辞めたいなんて、考えが甘いんじゃない」といわれるかもしれません。


いや、誰にもいわれていなくても、なんとなく自分の頭の中で思考をめぐらそうとすると、そういうごく世間一般的な批判の言葉が繰り返されてしまいます。


そうなると、「自分に合っていない仕事を10年もしてきて、もう心底疲れ切ってしまっている」、そういう感覚を封印してしまいます。

それが長い期間続くと、職場の人間関係で問題が起きたり、夫婦関係がギクシャクするようになったり、身体的な不調になったりします。


こういうときは自分の言葉にならない心の声を聴いて、「ああ、そうだ。自分は心底疲れ切っていたんだ。会社を辞めたかったんだ」と気づく必要があります。

だからといって、すぐに会社を辞めるわけではありません。

会社の中で上司と話し合い、部署異動をするかもしれません。

夫婦で仕事の辛さについて話し合い、そのしんどさを理解してもらえば、夫婦のあり方が変わってくるかもしれません。

心身の不調が出たときは、いい意味で手を抜いて仕事をできるようになるかもしれません。

そして、今までとは全く違う人生を歩みたい自分に気づくことだって、あるかもしれません。


どのように変化していくかは、自分の心の声に耳を傾けてみなければわかりません。

ただ、自分の中にあるまだ言葉になっていない感覚、生命的叡智に耳を傾けていくことにより、変化が起きてくるのは間違いありません。

一人だと自分の心の声を聞くのが難しい




こういうと「じゃあ、自分で自分の心の声を聞けるようになれば、カウンセリングは必要ないの?」と思う人もいます。

たしかに、自分の心の声を正確に聴くことができるなら、カウンセリングは必要ありません。

ただ、ほとんどの場合、それができる人はまずいません。限りなく0%といっていいほど、僕たちはそれができません。


自分自身も含めて、まわりを見回してみてください。

悩みの大小の違いはあれど、悩みを持っていない人など、この世にいません。

一時的に悩みのない時期はあっても、それは短期間のこと。長期的に見て悩みのない人など、いません。

それは僕たちカウンセラーだって同じです。

だから、僕たちカウンセラーも、ときどきカウンセリングを受けて心のメンテナンスをしないといけません。


では、なぜ僕たちは一人だと、自分の心の声を聴くことができないのでしょうか。


その理由は二つあります。


一つは、僕たちは日常の雑多な出来事に追い回されてしまうからです。


心を亡くすと書いて忙しいといいますが、まさにそのとおり。

仕事、家事、子育て。それだけで僕たちの一日は埋め尽くされてしまいます。

しかも、ほんの少しできたスキマ時間は、テレビを見たりスマホをいじって過ごしてしまいます。

自分の心の声に耳を傾けるというのは、心豊かに生きるためにもっとも大事なことです。


でも、今すぐやらなきゃという緊急性はありません。


しかも、手軽で簡単に脳を刺激してくれるテレビやスマホと違い、地味でめんどうな時間のかかる作業です。

たとえ深い喜びを感じられたとしても、緊急性がなく手間がかかる地味でめんどうなことは、つい後回しになってしまうのです。


それは、ダイエットや筋トレに似ているのかもしれません。

ダイエットや筋トレをしないせいで、生活習慣病になるのと同じです。


僕たちは、心の声を聴くのを延々と後回しにしてしまいます。

そして、モヤモヤやイライラが、抱えきれないほど大きくなり、心の病になってしまいます。


いまはマインドフルネス、いわゆる瞑想が心の健康に良いと盛んにいわれていますが、それを実際に習慣にできている人が、どれだけいるでしょうか。

僕たちカウンセラーですら、できていない人が多いと思います。少なくとも僕自身はその一人です。

そもそも昔の人びとだって、出家してお坊さんにならなければ、なかなか瞑想を習慣にできなかったのだと思います。


それを考えると、テレビやスマホなどの手軽な誘惑が増えた今の時代、よりいっそうそういったことを先延ばしにしてしまうのは、当然のことかもしれません。


人間というのは、緊急性がないことは、なかなかやろうとしません。

そして、めんどうで手間がかかることは、よりいっそうやろうとしません。


自分の心の声を聴くことは、緊急性がなく手間がかかるのですから、もっとも先延ばしにされやすい行為なのです。


では、どうすれば僕たちは、自分の心の声に耳を傾けられるのでしょうか?

それは、「心の声を聴くため、対話の相手と日時、場所をきめてしまう」ことです。


たとえば僕たち地球人は、「地球人とはどういう生き物か?」を真剣に考えるには、宇宙人という対話の相手が必要です。


「僕たち地球人はどういう生き物だろうか?」

これはとても重要な問いです。


この問いを普段から真剣に考えていれば、もっと平和に様々な問題を解決し、心豊かに生きていけることでしょう。


でも、人間は必要に迫られなければ、戦争をしたり経済活動でしのぎを削ったりして、時を過ごしてしまいます。

宇宙人という対話の相手がやってくることにより、緊急性が生まれます。

そして、ようやく地球人とはどんな生き物かという問いへの追求が、地球人の中で盛んになります。


必要に迫られないと、僕たち人間は真剣になれないのです。


それを示すかのように、カウンセリングには、治療前変化というものがあります。

たとえば、「予約をしてから今日までの二週間の間に、どのような変化がありましたか?」と、カウンセラーが相談者さんに問いかけるのです。


僕自身は、意識してこの技法を使うことはあまりありません。

それでも、結構な割合の相談者さんが、カウンセリングの最中に、

「実は予約をしてから今日までの間に、大きな気持ちの変化がありまして…。予約のときと相談内容が違っていてもいいですか?」

とおっしゃることがあります。


人間というのは、カウンセリングの予約を入れてやっと、

「自分のこのモヤモヤとした悩みを、どのようにカウンセラーに説明したらいいんだろう?」

と、頭の中でまとめはじめます。


カウンセラーという伝えるべき相手と、予約日時に迫られないと、わざわざ心の整理をするなんてめんどうなことは、なかなかできないのです。

これは僕自身がカウンセリングを受けるときも同じで、予約を入れてからやっと真剣に自分の悩みを考えはじめます。

なので、治療前変化の起きる相談者さんの気持ちは、とてもよくわかります。

(ここに書いている自分なりのカウンセリングの考え方も、ここに書くためにまとめなければ、なかなか真剣に考えられません。ふわっとした感覚として、僕のなかにあるだけです)


人間は、対話する相手がいて、その日時が決まっていないと、自分の心の声に耳を傾けるという、めんどうで手間がかかる大変な作業には、なかなか取りかかれないのです。

これがカウンセリングが必要とされる理由の一つ目です。

安心で安全な環境でやっと自分の心の声を聞ける




二つ目の理由は、心の声を正確に聴くには、批判も否定もされない雰囲気が必要だからです。


生命的叡智である僕たちの心の声は、つねに僕たちにささやいてきてくれています。

でも、その声はとても小さくか細いものです。


なので、ちょっとした批判的な意見や、否定的な声によって、すぐに心の奥に引っ込んでしまいます。


たとえば、40代、働き盛りの男性が会社に行こうとすると、めまいがするようになったとします。

その男性自身は、自分が会社に行きたくないことに、まだ気づいていません。

病院に行くと自律神経から来るものだ、何かストレスに心当たりはないかといわれます。


たしかに、なんだかモヤモヤとした疲れのような、どろっとした黒い沈殿物のようなものが、なんとなく自分のなかにあるような気がします。

でも、それがなんなのか、いくら耳を澄ましても自分の心の声なんて聞こえてきません。


それどころか、

「あなたねえ、40代で奥さんも子供もいるのに、めまいくらいで働きたくないだなんて…。

そんなことでどうするの?ちゃんと男としての責任を全うしなさいよ」


そんな言葉ばかりがあたまに浮かんできます。

実際に誰かからその言葉を言われたわけでないのに、そういう言葉が頭の中にこびりついて離れません。

だから、誰にも相談することができないし、自分の中で整理しようと思っても、批判的な声にかき消されて、自分の生命的叡智、自分自身の奥深くにある心の声が聞こえなくなってしまいます。


また、育児に疲れ切り、生まれてきたばかりの子供を、どうしてもかわいいと思えない。育てていく自信がどうしても持てない。

そうやって追い込まれていく親もたくさんいます。


そんな人の場合、

「あなた親なんでしょ。自分で子供が欲しいといったんじゃない。それなのになに逃げ出しているのよ。

私たちの時代は、もっと大変だったのよ。あなた親なのに自分の子供をかわいいと思わないの?自分の役目をしっかりと果たしなさいよ!」


そんな世間一般の常識的な正論が、あたまの中にこびりついてはなれません。

だから、自分の生命的叡智、自分自身の奥深くにある心の声を聴こうと思っても、こびりついた正論が邪魔をして、うまく言葉にすることができません。

 


本当は言葉にならない感覚として、

「ただただ疲れた。いくら親だといっても、一人で育てるのは無理がある。

もう私は壊れてしまう。もう全てを捨てて逃げ出したい。ほんの少しでいいから休みたい。

誰か、誰か、誰でもいいから、ほんの少しでいいから、助けて欲しい!」


そう思っているのかもしれません。


でも、頭にこびりついた批判の声で、「いまは誰かに助けを求めるべきだ。このままでは、親子ともに潰れてしまう」という生命的叡智の声が、聞こえなくなってしまうのです。


僕たち人間は、世間一般の常識やよくある正論が現状の自分への批判と結びつくとき、その声が頭いっぱいに広がってしまいます。

そして、それが自分の生命的叡智、心の声かき消してしまいます。

今どうすればいいのか、本当は心身の奥深くにある生命的叡智でわかっていても、それはかき消されてしまうのです。



だからこそ、カウンセリングが必要になります。

カウンセラーは世間一般の常識や正論を捨て、相談者さんがどのようなことを話しても、否定も批判もせずにその感覚を理解しようと接します。


たとえば、「結婚しているけれども、他の人を好きになってしまった」、「たまに部下を激しく怒鳴りつけたくなり、自分のことが怖くなる」。

相談者さんが、そういう感覚を持っていることだってあります。


そういう相談の場合、相談者さんがいきなりそのことを話してくれることは、あまりありません。

全く違う相談内容を話したり、問題の核心に触れない話題を話したりして、遠回しに少しずつ、こちらの反応を伺ってきます。


そういうとき、カウンセラーは相談者さんの語る内容がどのようなものであれ、否定も批判もせずに話を聴いていきます。

そして、話の内容とその人が持っている未だ言葉にならない感覚を理解しようとします。


とはいえ、ときには相談者さんの話が、驚かざるをえない内容のことだってあります。

そういうときに、まゆ一つ動かさず、悟りを開いたお坊さんのような表情で話を聴くのも、なんだか不自然です。


そういう態度で聞いてしまうと相談者さんは、

「いやいや、さすがにこの相談内容で驚かないのは不自然でしょ…。

このカウンセラー、本当に私の話ちゃんと聞いてるのかな。

それとも、私の言ってることを信じていないのかな…」

そう思ってしまうかもしれません。


それでは相談者さんは安心できなくなり、カウンセラーの信頼感が壊れてしまいます。


カウンセラーだって人間ですから、驚いてしまうことだってあって当然です。

驚かざるをえない内容のときは、驚いたのが顔に出てしまってもいいのです。

それを無理に隠そうとするから、信頼関係が壊れてしまうのです。


なので、たとえ一瞬、自分の心が驚いたとしても、

「ああ、いま相談者さんの話に、自分自身も驚いてしまったな」と、自分の心の動きを正直で正確に判断できればいいのです。(自己一致)


そして、

「この人が結婚しているのに、他の人を好きになったというのは、どんな背景があり、どのような感覚なんだろう?」

「この人が部下を怒鳴りつけたくなり、自分自身が怖くなるというのは、どんな背景があり、どんな感覚なんだろう?」


そうやって相談者さんの話の内容を、相談者さんの目と相談者さんの耳と相談者さんの肌で感じようとすること。

それにより、相談者さんの心が体験していることを、できるだけ自分の心で再生してみようと、深い関心を持ち続けること(共感的理解)。



「ああ、なるほど。正直、最初は少し驚いてしまいました。

でも、そういう人生を生きてきた背景があり、今の現状がそういう状況ならば、そういう気持ちになってしまったというのが、少しわかった気がします」

相談者さんの感覚を理解できたと思ったら、それを世間一般の価値観や常識、正論で評価や判断することなく、その感覚をしっかりと受け止めること。(受容)



「ここは大切なポイントなので、間違いないように確認したいのですが、いまのお話を聞いて、私はそう感じたのですが、そういう理解で間違いないでしょうか?」

相談者さんの話を聴いて自分のなかで理解した感覚が間違っていないか、丁寧に相談者さんと確認すること。(伝え返し)。


そういう態度で接していくことで、相談者さんに対する理解が深まります。


それは一度に起こることではなく、対話をする時間が長くなるにつれ、螺旋のように少しずつ理解が深まっていきます。



それと同時に、「ああ、このカウンセラーさんは、否定も批判もせず、しっかりと自分のことを理解しようとしてくれている」と、安心で安全な雰囲気を作ることができます。


ある意味、そういう雰囲気を作り出すことが、対話の本質であり、カウンセリングの本質なのだと思います。

自分でさえ受け入れられないありのままの自分が受け入れられる雰囲気があれば、人間の生命的叡智は力強くなり、自分自身が成長すべき姿へと進んでいきます。

そして、その人が成長していくにつれ、精神的な葛藤がほぐれていきます。


カウンセラーが感じたことを伝えることもある




そこでもし、カウンセラーの中に、何か相手の成長を促進するような何かが思い浮かぶことがあります。

カウンセラーはその感覚を丁寧に感じ、相手が受け取りやすい言葉を選び、それを本当に相手に伝えるべきか熟慮に熟慮を重ね、思い切って相手に伝えることもあります。


ここはカウンセラーによって意見が分かれるところです。

鏡に徹するべきという人もいれば、僕のように促進的な何かが自分の中に湧いてきたのであれば、それを伝えることが大事という人もいます。


僕自身は、自分自身がカウンセリングを受けたときに、

「今日の自分の話を聴いて、カウンセラーさんはどう思ったのだろう?」

そんなことが、やはり気になることがあります。


そこで今日のカウンセリングで、相談者さんの話をカウンセラーがどのように感じたのかを伝えることは、とても有効だと思っています。

そこでカウンセラーがカウンセラー自身の生命的叡智に触れながら、丁寧に言葉を選び相談者さんに伝えることが大事だと思っています。


カウンセラーから返事がなく、ただただ相談者さんの独白になってしまっては、対話にはなりません。

カウンセラーが感じたことを、相談者さんにとって促進的に伝えることにより、対話が生まれます。

そして、そのときのカウンセラーの言葉により安心感を得て、相談者さんがより自己一致して生命的叡智に近づいていけることで、より対話が深まっていきます。



ただ、そのときに、相談者さんを誘導することがないように、

「カウンセラーは相談者さんを誘導するようなことがあってはいけないので、これはあくまで僕の個人的な意見になります。

なので、聞き流す程度に聞いて欲しいのですが、今日のお話を聞かせていただいて感じたのは、いきなり夫婦で話し合うのではなく、まずは少し距離を取りたいと思っておられるように少し感じたのです。

その辺はご自身ではどのように感じますでしょうか?」


または、

「これはあくまで僕個人の考えなので、違うかったら遠慮なく違うとおっしゃっていただいた方が、より正確にお話を理解できるので、本当に違うかったら違うとおっしゃってくださいね。

部下を怒鳴りつけたり、攻撃的な自分になってしまうくらいなら、出世なんてしない方がよかったと思ってらっしゃるのかなと感じたのですが、その辺はご自身でどう感じますでしょうか?」

そんなふうに語りかけるようにしています。



こういう確認作業やカウンセラーが感じていることをときには素直に伝えてみることにより、最初はただの会話としてはじまったのが、だんだんと深まり、対話になっていきます。

相談者さんは世間一般の価値観を脱ぎ捨て、とことんまで自分の感覚に正直になります。

そして、ときにはカウンセラーもカウンセラーという仮面を脱ぎ捨て、一人の人間として対話をします。


それが深まれば深まるほど、世間一般の価値観は剥ぎ取られ、生の人間と生の人間として、真の出会いが生まれます。


その体験を重ねていくうちに、世間一般の価値観よりも、生命的叡智である言葉にならない自分自身の感覚を信じて生きていけるようになります。


生きていく上で、何か悩みや迷いが生じたときに、世間一般の価値観や意識という理屈で考えたものよりも、もっと深いところにある生命そのものが持つ心のコンパスを頼りに生きていくことができます。

それは真の意味で自分が自分になるということであり、真の意味での自己実現です。

 

まさに文字通り、自己を実現することになります。

 

 

 

自分の選択した人生に納得できるようになる


カウンセリングはこのようにして進んでいき、相談者さん自身の内在していた問題を乗り越える力を表面することにより、新しい人生の選択肢を選べるようになります。


そうやって選んだ生き方は、ほとんどの場合、どのような結果になっても、

「あのとき自分にできる最善の選択をした。だから、いまの人生をしっかりと生きていこう」

そう思えるようになります。


人間は、生きていれば必ずつらい出来事があります。

それは、いくら心理学を学ぼうと、変わることはありません。

でも、自分の生命的叡智、心の声に耳を傾けて生きていけるようになれば、つらい出来事はあったとしても、納得して生きていけます。


不安や迷い、苦悩をゼロにすることはできませんが、自分自身で人生を選び、その結果を受け入れることができるようになります。

そして、自分の人生に納得できるようになります。

そのことにより、心の葛藤が減り、より楽に充実して生きていくことができます。



カウンセリングとはこのように、相談者さんとカウンセラーが、対話を通していまだ言葉にされたことのない感覚を言葉にし、生の人間と生の人間として真の出会いを果たし、自分の生命的叡智を頼りにして生きていけるようになることです。


なので、カウンセリングとはなにか?」という問いへの僕自身の答えは、

「安心できる人間関係による対話と出会いにより、自分自身の生命的叡智を活用できるようになること」

となります。



ただ、ここで一つ問題があります。

もし僕が、次に友達の新年会に呼ばれたとき、

「カウンセリングってのはな、真の対話と出会いにより、自分自身の生命的叡智を活用できるようになることやで」

と答えても、場をしらけさせ、来年の新年会には呼ばれなくなる可能性が高いことです。


やっぱり、お酒の場でカウンセリングとは何かなんて真剣にい話さずに、ごまかすくらいがちょうどいいのでしょう。